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第5話 不死身の雛菊

last update Veröffentlichungsdatum: 24.08.2026 18:06:12

漫画喫茶の個室に差し込む朝の光は、窓のない店内では時計の表示でしか分からなかった。午前六時四十分。鵜飼原継真は机の上へ伏せていた黒い手帳を鞄代わりのビニール袋へ戻し、長く息を吐いた。眠ったつもりはほとんどないが、二時間ほど記憶が飛んでいる。隣の個室にいるはずの洲脇雛菊へ声をかけようと立ち上がったところで、床に小さな赤黒い点が落ちていることへ気づいた。

最初は誰かがこぼした飲み物かと思った。しかし点は個室の入口から廊下へ続き、その先で途切れている。継真はしゃがみ込み、指先を近づけるまでもなく、それが乾きかけた血だと分かった。昨夜、自分は頬を切り、腹を殴られたが、出血するような傷はもうない。視線を上げると、ちょうど隣の扉が開き、雛菊がコンビニの袋を片手に戻ってくるところだった。

「おはようございます。継真さん、コーヒー飲めます?」

「腕を見せろ」

「はい?」

雛菊は袋を持ったまま立ち止まった。黒いセーラー服の袖口、その右側だけがわずかに濃い色へ変わっている。継真が近づいて手首を掴むと、彼女は抵抗せず、むしろ何をされるのか興味深そうに見上げた。袖を肘まで捲ると、細い腕の外側に布を裂いたような傷があり、簡単に巻かれたガーゼが赤く染まっていた。

「これ、いつやった」

「昨日です」

「昨日のいつ」

「倉庫で最初の人たちと会った時だと思います。たぶん金属片が当たりました」

「思います、じゃないだろ」

継真は思わず声を低くした。雛菊は叱られた理由が分からないように傷口を見下ろし、それから「ああ」と小さく頷く。自分の身体のことなのに、他人から指摘されて初めて思い出したような態度だった。昨夜から何度も腕を動かし、銃を扱い、走り続けていた。それなのに痛いとも動かしづらいとも、一度も口にしていない。

「血、止まってないじゃないか」

「減ってますよ。昨日より」

「病院行くぞ」

「普通の病院はちょっと」

「保険証がないとか言うなよ」

「あります。でも、この程度で普通の病院へ行くと説明が面倒です」

雛菊は笑って答えた。学校へ遅刻した理由を説明したくないという程度の軽さだったが、継真はその笑顔を見ても安心できなかった。銃撃や殴打があった場所で負った傷を、病院でどう説明するつもりなのかという問題は確かにある。それでも、だから放置するという結論へ迷いなく進める感覚は理解できなかった。

「じゃあ、どこならいい」

「知ってる先生がいます」

「医者?」

「はい。たぶん怒られますけど」

「それでも行く」

継真が即答すると、雛菊は少しだけ目を丸くした。自分の怪我のために予定を変えられることが予想外だったらしい。やがて口元を緩め、「継真さん、優しいですね」と嬉しそうに言う。

「違う。傷開いたまま会社へ来られても困る」

「それも優しい言い方に聞こえます」

「聞き間違いだ」

二人は漫画喫茶を出て、まだ店じまい前の酔客が残る歓楽街へ向かった。朝方の灰戸市は、夜の熱気が抜け切らないまま薄い光に晒されている。路地には清掃車が入り、居酒屋の店員が空き瓶の箱を運び、けばけばしい看板だけが消灯していた。雛菊はその中を迷わず歩き、繁華街の中心から外れた古い雑居ビルの前で立ち止まった。

建物は六階建てで、外壁のタイルが何枚も剥がれている。一階には閉店したスナックと古いクリーニング店の看板が残り、入口の郵便受けには半分以上ガムテープが貼られていた。雛菊はエレベーターへ向かわず、脇の狭い階段を地下へ降りていく。階段の途中から消毒薬に似た匂いが漂い始め、継真はようやく本当に診療所らしい場所があるのだと知った。

地下の扉には医院名も診療時間も掲げられていなかった。雛菊が三回、間を置いて二回ノックすると、内側から鍵の外れる音がする。扉を開けたのは三十代ほどの女で、肩までの赤茶色の髪を後ろへ適当に束ね、灰色の目の下には濃い隈が残っていた。白衣は着ているが、その下は黒いTシャツとジーンズで、徹夜明けのような疲れた顔をしている。

女は雛菊を見るなり眉間へ皺を寄せた。

「またなの」

「おはようございます、琴葉さん」

「おはようじゃない。どこ」

「右腕です」

「他は」

「たぶんないです」

「その『たぶん』をやめろって何回言った?」

雛菊は怒られているのに、どこか安心した顔で靴を脱いだ。継真が続いて入ると、女――槙埜琴葉の視線が初めてこちらへ向く。診察するように顔から手元、服装まで一度で見られ、継真は反射的に社員証を作業着の内側へ隠した。

「誰、その子」

「好きな人です」

「違います」

ほぼ同時に答えが重なった。琴葉は一度だけ目を閉じ、それから深く息を吐いた。

「朝から面倒なの連れてきたわね」

「俺が連れてきたわけじゃないです」

「この子が自分から誰か連れてきたの、初めてだから。そこは面倒でも受け入れて」

継真が雛菊を見ると、本人はもう診察台へ腰掛け、腕のガーゼを剥がそうとしていた。琴葉はその手を払い、「触るな」と短く言う。棚から手袋と器具を取り出し、傷口を確認した瞬間、顔つきがさらに険しくなった。

「何時間これで動いたの」

「六時間くらいでしょうか」

「もっとでしょ」

「そうかもしれません」

「縫うほど深くないのが腹立つわ。これで大丈夫だったって覚えるから」

琴葉は消毒液を含ませたガーゼを傷へ当てた。継真なら顔をしかめる程度には染みそうだったが、雛菊はまばたき一つせず、むしろ彼の頬を見ている。その視線に気づいた琴葉が手を止めずに問いかけた。

「何」

「琴葉さん、継真さんも怪我してます」

「見れば分かる」

「そっち先にしてください」

「今、腕から血を流してるのは誰?」

「私は慣れてます。でも継真さんは慣れてないです」

琴葉の手が一瞬止まった。ほんの短い間だったが、継真にはその変化が分かった。琴葉は雛菊の顔を見たあと、今度は継真へ視線を移し、何かを量るように目を細める。

「頬だけ?」

「腹を殴られました。息苦しさも吐き気もないです」

「あとで診る。そこ座って」

「大丈夫です」

「患者が決めない」

有無を言わせない声音だった。継真は壁際の丸椅子へ腰を下ろし、治療を受ける雛菊を改めて見た。右腕に傷がある以外、昨夜と何も変わらない。笑えば年齢より幼くさえ見える。それなのに袖の下には、今できた傷とは違う古い痕がいくつも見えていた。

右肩に近いところへ薄い円形の跡がある。肘の内側にも白い線が残り、袖がずれた拍子にはさらに上の皮膚にも別の傷が見えた。継真が無意識にそこへ目を止めると、琴葉が気づいたらしい。

「初めて見ると気になる?」

「……それ、全部仕事の傷ですか」

「本人に聞けば」

雛菊は自分の腕を眺め、「たぶんそうです」と答えた。

「覚えてないのか」

「大きいのは覚えてます。小さいのは増えるので」

継真は言葉を失った。琴葉は傷を洗い終え、新しいガーゼを当てながら鼻で息を吐く。

「裏では《不死身》なんて呼ばれてるけど、聞いたことある?」

「ないです」

「なら、そのまま知らなくてよかったのにね」

雛菊が「格好いいですよね」と口を挟み、琴葉に額を指で弾かれた。軽い音がしても、本人は笑っている。継真は《不死身》という言葉と目の前の細い少女がどうしても結びつかなかった。

「本当に死なないとか、そういう話じゃないですよね」

「当たり前でしょ。死ぬ時は死ぬわ」

琴葉の声が少しだけ冷たくなった。包帯を巻く手は丁寧なのに、その言葉には長く積もった苛立ちがあった。

「普通なら仕事をやめるような怪我を何回しても、治ったら戻る。銃で撃たれても、刺されても、骨折しても、動けるようになったら次へ行く。何度も死んだって噂が流れて、そのたび平気な顔で現れるから《不死身》。でも実際は違う」

琴葉は包帯を留めると、雛菊の腕を少し強めに押した。

「本人が死ぬ気で突っ込むから、不死身に見えるだけ」

その言葉だけは、雛菊も笑わなかった。怒られているからではなく、どう返せばいいか分からないように目を伏せる。継真は昨夜の倉庫を思い出した。銃口を向けられても表情を変えず、自分の前へ立ち、怪我をしても何も言わなかった。強いから傷つかないのではない。傷つくことを止まる理由にしていないだけなのだ。

「死ぬ気はないですよ」

雛菊が小さく言った。

「生きる気も薄いのよ、あんたは」

琴葉は即座に返した。診察室に短い沈黙が落ちる。冷蔵庫のモーター音と、どこかで水滴の落ちる音だけが聞こえた。継真には口を挟めなかったが、琴葉がこの少女を何度も治してきたことだけは分かった。

しばらくして琴葉は雛菊の腕から離れ、今度は継真の前へ来た。頬の切り傷を確認し、消毒しながら「これは浅い」と言う。腹部も服の上から状態を確かめられ、強い痛みや呼吸異常が出たらすぐ受診するよう念を押された。

その最中も雛菊は診察台から身を乗り出し、「頬、跡になりませんよね」と何度も尋ねた。自分の腕には新しい包帯が巻かれているのに、心配しているのは継真の数センチの傷だけだった。琴葉が三度目に「ならない」と答えると、ようやく満足したように姿勢を戻す。

「お前、自分のほうが怪我ひどいだろ」

「でも継真さんの顔に傷が残ったら嫌です」

「俺は別に気にしない」

「私は気にします」

「何でお前が決めるんだ」

「好きなので」

またそれだった。継真は反論しようとして、やめた。昨夜から同じ言葉を何度聞いたか分からない。しかし今は、その軽々しい響きの裏で雛菊が何をしているのか、少しだけ違って見えた。

彼女は本当に自分の怪我より継真の傷を先に気にしている。命を狙われる原因になった相手を恨むでもなく、自分が負傷したことさえ大した問題と思っていない。継真はそれを献身などという綺麗な言葉で受け取りたくなかった。むしろ危険だった。

守ってくれと頼んだ覚えはない。雛菊自身が勝手に依頼を破棄し、勝手についてきて、勝手に怪我をした。それでも、自分には関係ないとは思えなかった。昨夜、彼女が前へ立たなければ自分はここにいない。その代わりとして腕へ傷を作った少女に、次も同じことをして当然だと考えるほど継真は鈍くなかった。

会計らしいものを済ませ、二人が地下の扉を出ようとすると、琴葉が背後から雛菊を呼び止めた。

「三日は無茶しない。濡らさない。痛みが増えたら連絡。分かった?」

「はい」

「本当に?」

「努力します」

「返事からして信用できない」

琴葉は呆れたように眉を寄せ、それから継真へ視線を移した。

「悪いけど、見てて」

「俺がですか」

「この子、自分の傷だけは見ないから」

押しつけるなと言いたかった。だが継真は結局、否定できなかった。雛菊は隣で嬉しそうに笑っている。診療所を出て階段を上がる途中、その包帯が目へ入るたび、胸の奥に小さな重さが残った。

地上へ出ると、朝の歓楽街はかなり明るくなっていた。通勤客が駅へ向かい始め、昨夜とは別の街のように人の流れができている。継真は腕時計を確認した。会社へ指定された八時まで、まだ少し余裕がある。

雛菊が自然に隣へ並んだところで、継真は足を止めた。

「次から」

「はい?」

「怪我したら言え」

雛菊は瞬きをした。継真は彼女の包帯へ目を向けたまま続ける。

「かすり傷でも、撃たれたでも、何でもいい。自分で大したことないって決める前に報告しろ」

「どうしてですか?」

「守られてる側が、何も知らないまま相手に血を流されるのは気分が悪い」

言ってから、自分でも妙に踏み込んだ言葉だと思った。雛菊はすぐには答えなかった。いつもなら好意を向けられたと判断した瞬間に明るく騒ぐのに、今回は数秒固まったまま継真を見上げている。やがて白い頬がじわじわ赤くなり、包帯のない左手で胸元を押さえた。

「……また苦しくなりました」

「病院出たばっかりだぞ」

「ここじゃないです。恋のほうです」

「知らない」

「継真さん、恋って悪化するんですか?」

「俺に聞くな」

雛菊は胸を押さえたまま、それでもひどく嬉しそうに笑った。継真が呆れて視線を逸らした、その時だった。作業着のポケットに入れていたスマートフォンが短く震える。

着信ではなく、メッセージだった。登録のない番号。継真は足を止め、画面を開いた。

《黒い手帳を返せ。午前九時、会社で待つ》

文字はそれだけだった。挨拶も名乗りもなく、こちらが何を持っているかを断定している。主任が指定した八時とは時間が違う。つまり会社の中に、少なくとも別の意思で動いている人間がいる可能性がある。

雛菊が横から画面を覗き込んだ。さっきまで赤かった頬から笑みは消えていないが、琥珀色の瞳だけが静かに細くなる。継真はメッセージを削除せず、その番号と時刻を頭へ刻み込んだ。

会社へ戻れば、もう事故の報告だけでは済まない。黒い手帳を持っていることまで知られたうえで、自分が呼び戻されている。継真はスマートフォンを握り直し、朝の人波の向こうにある灰戸港の方角を見た。

自分を殺し損ねた人間たちは、まだ待っている。しかも今度は、自分が何を持っているのかを知ったうえで。

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